働く女性のキャリアとライフを豊かにする仕組みをつくり、ダイバーシティを推進し、すべての人の自己実現を応援していくLiBに、新たな仲間として、NHK紅白歌合戦にも出場したバンドAqua Timezの元ドラマー“TASSHI”こと田島智之氏が入社しました。引退後の仕事は、注目の職種「インサイドセールス」。そのキャリアを選んだ理由や、LiBで実現したいこととは?
2018年12月31日。『Aqua Timez』解散と同時に、私はドラマー“TASSHI”として、表舞台での音楽人生に一区切りをつけ、2019年よりビジネスパーソン“田島智之”としてのセカンドキャリアをスタートさせました。この予想外の転身に、驚かれた人もいらっしゃると思います。
社会人経験の浅い40歳の私が、表舞台での音楽活動を休業し、女性のキャリアとライフを支援するITスタートアップの一員となったのか。半生を振り返りながら、お話しします。
すべては、初めて自ら進路を決めた中高時代からスタート
私の人生は数々の「強運」で成り立っています。
人生で最初につかんだ強運は、中学受験をし、進学校入学への切符を手に入れたことです。生まれ育ったのは、どこを見ても閉塞感をおぼえる街。日に日に「人と違うことをしなければ、自分はここに埋もれてしまう」という危機感が募り、小学校5年生で自ら進路を決めました。この選択が、これからお話する私の“将来”に大きく左右していきます。
音楽と出合ったのは、高校生の時。ある日、同級生から「バンドやろうよ!」と誘われ、思いがけずドラマーとしてデビューを果たしたのです。ちなみに、なぜ、ドラマーだったかというと、小学校時代にマーチングバンドで小太鼓をやっていたから(笑)。
その後、バンドに誘ってきた張本人はあっさり辞めてしまいましたが、音楽の虜になってしまった私は、高校在学中に「プロミュージシャンになる」と決意。オリジナル曲を作りながら、大小さまざまなコンテストに挑みました。
プロを目指しつつ、コールセンター業務をこなす下積み生活
それからまもなくして、人生2度目の「強運期」が訪れました。当時、高校生バンドマンなら誰しも憧れた『YOKOHAMA HIGH SCHOOL HOT WAVE FESTIVAL』の、全国大会への出場です。数千組の中から選ばれた栄誉、用意された横浜スタジアムという大舞台。僕のバンド人生は、すこぶる順調だ――そう信じて疑いませんでした。
高校卒業後は大学進学という名のもとに、プロを目指して上京。在学した4年間は本気で音楽活動と向き合いましたが、業界関係者からのしっかりとしたお声がけはありませんでした。やがて学生という立場は奪われ、バンドは解散しました。
22歳、まだまだあきらめきれない夢。「バンド活動を続けながら、できる仕事は何か」――そうして始めたのがコールセンター業務でした。直接の顧客接点がないため、丁寧な電話対応さえ心がけていれば、どんな金髪の兄ちゃんであってもおとがめがないからです。
もともと私は、物事を効率的に動かしたいタイプ。一方で周囲からは「物腰が柔らかい」と評されていました。そうした性質がコールセンターの仕事に向いていたのでしょうか。バイトの立場でありながら、1オペレーターから、10数人のオペレーターをまとめるリーダー職へと、ポジションを上げていきました。
“ドレッドヘアに無精ひげ”のミュージシャンが認められた! 一生忘れられない成功体験
バイトでの出世とは裏腹に、肝心のバンド活動はなかなか芽が出ない日々。ライブの集客にも苦心する状態でした。そんな中、私はバイト先で、さらなる成功体験を重ねることになります。
当時、大企業を中心に広がっていた「国内向けのコールセンターを日本から他のアジア諸国に完全移行させる」というプロジェクト。私は某メーカーの教育スタッフとして、期間限定で中国へ派遣されることになりました。
現地入りしてすぐに「これは絶対に事故が起きる」と直感しました。“業務委託先から来たアルバイト”という立場を越えて奔走しなければ、短期間で「コールセンターを国内同様に稼働させる」目的を達成することはできない。
そう思い、最初に取り掛かったのが、現地スタッフ用の教育カリキュラムやマニュアルの作成です。日本語を母国語としないスタッフに、2週間で専門用語や商品知識を正しく理解させ、適切な対応ができるようにする。それがゴールでした。
常に問題が山積している状態の中、あきらめずに「課題を察知し、思考し、人を巻き込みながら、解決していく」。途中くじけそうになりながらも、最終日には、教育係としての任務を無事果たすことができました。
達成感よりも何よりも、一番嬉しかったのは、クライアントから認められたこと。ドレッドヘアに無精ひげなスタイルだった私に「バンド活動が行き詰まったら、いつでもうちの会社に来なさい」と部長が直々に声をかけてくれたのです。27歳にして、初めて「仕事で評価される喜び」を知りました。
「夢をあきらめる」そう決意した瞬間、『Aqua Timez』から届いた突然のオファー
音楽を心から愛しているし、成功もしたい。だけど、このまま活動を続けて本当にいいのか――仕事での成功体験をきっかけに、ふと湧いてきた疑問。悩みに悩んだ末、私はプロミュージシャンの夢をあきらめ、会社員として再出発する決意をしました。そこで初めて就職活動を行い、無事内定をもらえたことも、私が「強運」の持ち主だったからかもしれません。しかし、その直後にさらなる「強運」ぶりが発揮されます。
「今、『Aqua Timez』というバンドをやっているんだけど、もうすぐドラマーが脱退しちゃうんだよ……」
大学時代の先輩から、数年振りにかかってきた電話。まぎれもないバンド加入のオファーでした。
当時『Aqua Timez』といえば、インディーズながらヒット曲を飛ばし、歌番組にも出演している人気バンド。普通のミュージシャンであれば、二つ返事でOKするでしょう。しかし、自らの音楽活動に終止符を打とうとしていた私は即答ができませんでした。
背中を押したのは、ジャンルを超えた、彼らの豊かな音楽性でした。特に歌詞には特筆すべきものがあり、デモ音源を聴いた瞬間に、加入を決意しました。
私が加入した2006年、『Aqua Timez』は紅白歌合戦に初出場。その後もライブ活動やアルバム制作を精力的にこなし、バンドとしての実績を着実に積み上げていきました。
13年の恵まれたバンド生活と、解散後のセカンドキャリア探し
紅白出場、全国ライブ、アルバム発売――『Aqua Timez』に在籍した2018年12月までの約13年間で、数えきれないほどの夢を実現できました。加えて、後半の6年間をバンドマスターとして過ごせたことは、今後のセカンドキャリアを築く上でも貴重な経験となりました。
バンドマスター略して“バンマス”とは、メンバーの意見を集約してまとめ、関係者と調整する、いわばバンドの運営を担う役割。所属事務所やレコード会社、ライブクルーなどその時々に関わる人と内容をすり合わせ、ライブやアルバム制作をベストな形へと導きます。ライブ中のMCでもトークを仕切り、ファンからは「先生」と呼ばれることもありました(笑)。大役でしたが、自分の性に合っていたようです。
2018年5月に『Aqua Timez』の解散が決まった時、すでに左手の持病を抱えていた私は、音楽業界から身を引くことを決めました。音楽には、やっぱりステージに立つ側の人間として関わりたい。加えて、裏方の大変さも熟知していました。だから、セカンドキャリアとして音楽以外の道を歩むことを考えるようになったのです。
あらゆる可能性を模索している中で、再び会社員への門を叩く「勇気」を与えてくれたのは、コールセンターでのバイトの成功体験、そしてバンマスとして培ってきた調整力・コミュニケーション能力です。「40歳・未経験」でも努力が報われる仕事は何か――私は「営業職」に絞って仕事を探すことにしました。
この時に、知恵や縁を惜しみなく提供してくれたのは学生時代の友人たち。とりわけ、中高時に同級生だった友人がつむいでくれたご縁は最強でした。今をときめくベンチャー企業の代表者から、起業への思いや理念を聴くことができる貴重な機会。しばらく芸能界にいた私にとっては、実質的な社会勉強となり、何人かの方とお会いすることで、否応なく仕事観が変えられていきました。
情熱を燃やせる場所との出会いと、ビジネスパーソンデビュー後の苦労
LiB代表の松本洋介(ここではいつもどおり、洋介さんと呼ばせてください)と初めて会った時、言葉やしぐさ、話しぶりから「ミュージシャンと同じ、熱いハートの持ち主だ」と悟りました。ミュージシャンと大きく違うのは「ロマン」だけでなく「そろばん」、つまり経営知識を併せ持っている点でした。
この会社にジョインしたい、そう思った一番の理由は「仲間」です。
洋介さんは常に社員を「仲間」と呼んでいます。面談の時もそうでした。社員を上下関係でとらえていないんだな、と非常に好感を持ちました。
「仲間」と会ったのは、去年10月に行われた合宿を見学した時。LiBでは会社をより知ってもらうため、内定者を合宿に招くことが度々あるそうです。常に当事者意識を持ち、立場を越えて発言する仲間たちの姿を見て「代表や役員だけが外向きで言っているのではなく、本当にフラットな組織なんだ」と実感。私がイメージしていた、いわゆる「サラリーマン」の姿はそこにはなく、皆とてもイキイキした表情で、まっすぐに「コト」に向かっている。それがとても印象的で、ここなら、第二のキャリアを歩む場所としてきっと情熱を燃やすことができると確信し、入社を決意しました。
入社後は、顧客と電話でコミュニケーションを深めていく「インサイドセールス部」に配属されました。コールセンターでの成功体験もあったので、なんとかなるだろうと思っていましたが、真っ先にぶち当たった壁は、カタカナばかりのビジネス用語。フィジビリ、クォーター、ロードマップ… まるで言葉の通じない国に留学でもしたような感覚でした。分からない言葉に出会うとすぐに調べ、周りに聞き、一つ一つ疑問を解消。正直、最初はそれでいっぱいいっぱいでした。
また、ある程度は想定内でしたが、社会情勢や政治経済などの知識不足による苦しみもありました。そこで私が始めたのは、日経新聞やNewsPicksで見つけた記事を、自分なりの見解や考察を添えてチームのメンバーに発信する活動です。名づけて「たっしー通信」。働き方改革、女性のキャリア、HRTechなど、事業に関わるさまざまな話題を日々ピックアップしました。その情報を自分なりに咀嚼し、アウトプットすることで、多くの学びがありました。そのうちチームだけではなく、事業部全体へ発信する取り組みとなり、より高い視座で考える機会となりました。
先日ついに、この「たっしー通信」も100号を達成。やりきった頃には、ミュージシャン時代の私に比べて、知識がだいぶアップグレードされました。同時にだいぶ心に余裕も出てきて、日々の行動計画はもちろん、クライアントへのソリューションの質や、メンバーのコンディションなど、幅広く目を配れるようになりました。個人の業績も安定してきて、受注貢献やマーケティングとの連携など、インサイドセールスという仕事の醍醐味を、徐々に実感できるようになってきました。
信じた道で活躍することで、あらゆる人の人生をポジティブにしたい
思い返せば、生まれて初めて自分で選んで進学した、中高一貫校の同級生が、音楽と出合うきっかけを与えてくれ、大学の先輩がプロミュージシャンの道へと誘ってくれました。そして、今また、中高の同級生が、新たなセカンドキャリアへと導いてくれました。
どん底のような下積み時代があったから、若いうちから社会性と常識を身につけることができました。バンドで成功していたときも、誰にも叱られない怖さを常に感じ、支えてくれる周りの人たちへの感謝の気持ちを忘れないよう、心掛けてきました。
……何よりも、あらゆる立場のたくさんの人と出会い、接することができたおかげで、人の気持ちを推し量れるようになりました。
酸いも甘いもかみ分けてきたわが半生。やはり「強運」そして「最高のご縁」という言葉なしには語れません。40歳、セカンドキャリアをこの場所からスタートできたその意味をかみしめ、まずは、与えられている役割をしっかり演じ切ることが目標です。
そして、私が新たな活躍の道を切り開き、セカンドキャリアを精一杯生き抜くことを通して、進むべき道が見つからない人、経歴やスキルに自信がなくて悩んでいる人、一歩を踏み出すことに臆病になっている人など、あらゆる人々に勇気を与え、ポジティブな未来を選択できる世界をつくっていきたいです。すこし大げさかもしれないですが、夢が広がりますね。
これまで私を支えてくれた全ての人に感謝し、その恩返しのつもりで、LiBのMissionである「生きるをもっとポジティブに」を体現していきたいと思っています。多様なキャリアを応援しているLiBと、ビジネスパーソンとしての田島智之を、これからどうぞよろしくお願いいたします。
(この記事は2019.05.23に公開されたものです)